台湾に3年間赴任していましたが、この度帰任しました!

かつて“日本”だった台湾

みなさん、台湾というと何を思い浮かべるでしょうか。小籠包やマンゴーアイスなどのグルメ、九份や故宮博物館などの観光、そして足つぼマッサージ。飛行機で3時間ほど、時差もわずか1時間、近くて安心、気軽に楽しめる海外旅行なら台湾、というリピーターの方も多いと思います。
私自身は赴任で台湾に住むまでは、公私ともに当地を訪れたことはありませんでした。

来台当初まず感じたのは、ある種のノスタルジーです。台北の中心には、私が子供のころ近所でよく見かけたような、薬屋さんや金物屋さんが数多くあり、タイムスリップしたような感覚を覚えました。店の看板はもちろん中国語ですが、使われている漢字は大陸で使われているいわゆる「簡体字」ではなく、日本でもかつて使っていた旧字や少し複雑な「繁体字」で、時には日本語も混じっていました。まるで大正、昭和初期の新聞紙を見ているような気分になったことを記憶しています。

そして、なにより日本語を話す方が多い!これも赴任当初、街中の餐廳(食堂)で覚えたての中国語を使ってみようと気負っていたところ、逆にお店の人に「ビール?生がいい?」と聞かれ、思わず「はい、お願いします」と日本語で答えてしまいました。お店の人はもちろん日本人観光客相手の会話を覚えられたのでしょうが、70歳以上の方であれば日本語をふつうに話される方も大勢いらっしゃいます。
私自身が住んでいたアパートの隣のご婦人も85歳とおっしゃっていましたが、全く日本人と変わらない日本語で話しかけていただきました。最初「日本語お上手ですね」と申し上げたところ、「だって私が子供のころは日本でしたもの」という答えが返ってきました。改めて年表を確認したところ、1895年~1945年の50年間、「台湾」は「日本」(日本統治時代)だったのです。

台湾の歴史的英雄の母は日本人

「日本統治時代」以前にも、台湾と日本の結びつきは深かったようです。
中華圏で孫文、蒋介石と並ぶ民族的英雄ともいえる鄭成功(1624-1662)が、“日中ハーフ”だったというのはご存知でしょうか。鄭成功は、清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の租となりました。台湾ではオランダを打ち破りこれを一掃、鄭氏政権を樹立した台湾史上の英雄です。明の隆武帝から国姓を賜ったことから“国姓爺”とも呼ばれており、浄瑠璃や歌舞伎の演目にもある『国姓爺合戦』の主人公にもなりました。
彼の父親は福建省泉州府の鄭芝龍で、母親は日本の平戸(現在の長崎県平戸市)の田川マツです。貝拾いをしている際に産気づき、岩にもたれかかり鄭成功を出産したといわれており、その岩があった場所とされる平戸市川内港の近くの千里ヶ浜には、「鄭成功児誕石」なる石碑が建っています。田川マツは当時の肥前国平戸藩士、田川七左衛門の娘で、幼い鄭成功は7歳で福建省に移るまで日本で暮らしていたようです。

台湾の社会インフラ構築に尽力した日本人たち

日清講和条約締結により日本に台湾が割譲され、「日本統治時代(1895-1945)」が始まります。この50年間、台湾には19人の日本人総督が派遣されますが、その中には、日本史上でもよくその名前を耳にする「偉人」がいます。

二代目台湾総督「桂 太郎」

もともとは長州藩の武士ですが、明治維新後陸軍軍人(最高位は陸軍大将)となり、この時代に台湾に総督として派遣されています。後に日本の内閣総理大臣を三期(第11代、13代、15代)務めています。

三代目台湾総督「乃木 希典」

“乃木将軍”という呼称は、日本人ならどこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「乃木神社」「乃木坂」などにもその名前が残されています。乃木総督は台湾で特に教育に取り組み、現地の人を行政機関に採用したことでも知られています。

四代目台湾総督「児玉 源太郎」

児玉総督は、自らの“右腕”として医師であり官僚でもあった後藤新平を民政長官に抜擢、まずは台湾の行政機構の大改革に着手しました。経済政策では、殖産局長として農業経済学者新渡戸稲造を招聘し、さとうきび栽培などの生産を飛躍的に増大させています。総督としての8年間、鉄道、港、下水道などのインフラ整備に取り組むとともに、通貨・度量衡制度や統計制度などの社会制度の確立にも尽力しました。これらの社会インフラは、その後の改修、改築はあったでしょうが、現在の台湾のインフラの基礎となっているものが多く存在すると思われます。冒頭申し上げた“台北の街中で感じた日本人としてのノスタルジー”には歴史的根拠があったと言えましょう。

「台湾の社会インフラ構築」について語る際、忘れてはならない日本人がいます。

「八田 與一」

彼は1910年(明治43年)東京帝国大学土木工学科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職しました。当初は衛生事業として各都市の上下水道の整備を担当していましたが、その後、発電・灌漑事業部門に移り水利技術者として島内の水利工事を担いました。中でも「嘉南大圳(カナンタイシュウ)」という日本統治時代の最重要水利工事を成功させ、現在の嘉義市から台南市にかけて広がる嘉南平原の農業に大きく貢献。今でも台湾で「尊敬する日本人」として必ず名前が挙がっているようです。

映画『KANO1931海の向こうの甲子園』

これは実話をもとに作られた2014年の台湾映画、『KANO』の邦題です。日本では2015年1月に公開されています。

1931年(昭和6年)8月に甲子園で行われた「全国中等学校優勝野球大会(今の「全国高等学校野球選手権大会」)」に、台湾(当時は日本の一地方)代表として初出場した「嘉義農林学校野球部」の物語で、台湾映画でありながらかなりの部分が日本語となっており、加えて台湾語、客家語、アミ語(台湾の民族語)が使われています。
大会での結果は、惜しくも準優勝。ですが、様々な民族(日本人、台湾人、客家人、台湾のアミ族)の混成チームがはるばる台湾から初出場し、準優勝というのは驚くべき快挙でした。
ちなみにこの時の優勝校、すなわち決勝で台湾の嘉義農林学校が敗北を喫した相手は、愛知県代表の中京商業でした。中京商業も、初出場で初優勝という偉業を果たしています。

映画の中で、日本人で嘉義農林学校に教員として派遣された野球部の監督役には、俳優の永瀬正敏さん。また、この物語の中では上述の八田與一も登場しており、大沢たかおさんが演じています。

まとめ

台湾の人口はおよそ2,360万人ですが、台湾から日本を訪れている人数は年間約475万人と言われています。複数回訪日されている方もいらっしゃるでしょうが、一年の間に、5人に1人の割合の方が日本を訪れていることになります。
年配の方の中には日本語を話せる人が多い、と申し上げましたが、若者たちの中にも、アニメなどへの関心から日本語を勉強している人が大勢います。数値化するのは難しいでしょうが、台湾の人々の日本に対する関心や知識は、日本人の台湾への関心や知識をはるかに上回ると想像されます。
お恥ずかしい話ですが、私自身も赴任前は、台湾の事はほとんど知りませんでした。日本と歴史や文化を共有し、親日家の多い台湾を知ることが自分を含め、日本人を知る良いきっかけになるのではないか。3年間という短い間でしたが、台湾(Taiwan, Taipei)での“T-life”を経験し、今ではそう思っています。

旅行やビジネスで台湾を訪れる際は、ぜひ台湾と日本との関わりの歴史に触れてみてください。

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